海外に来ていると、情報通信技術がいかにここ数年、私たちの生活スタイルを劇的に変えたかを実感します。日本にいると、日常の生活パターンになってしまうので、あまり変化を感じないのですが、海外にいる時はルーティンから離れるので、新しい活動を実感します。 

 たとえば、以前は、海外にしばらくいると、日本語の新聞が読みたくなり、苦労して探したりしましたが、今ではネットで皆読むことができます。日本との連絡は電子メールを使えば、まるで直接会話しているようですし、ハイ・スピードのアクセスがあれば、書類、写真など何でも送ることは非常に簡単です。これは日本だけに限らず、世界のどこにいる誰とでも、縦横無尽にコミュニケーションができるわけで、シームレスという感触を実感します。

 ビデオもYou Tubeから検索すれば見られるので、海外にいる場合、一番鍵になる質問はハイスピードのネットアクセスがあるか、安定しているか、料金はいくらか、ということになります。これがないと手も足も出ないので、まずこの質問から始まります。

 本当はホテルや会議施設であれば、無料というのが望ましいのですが、1日―3日―週単位などの料金設定でも価値があるという結論になり、料金がかかっても、結局ネットにほぼつなぎ放題ということになります。

 こうしてすばらしい情報通信技術の進歩の恩恵を日々受けているのですが、私が最近疑問に思っているのは、言葉です。ネットで日本語のサイトや情報、ビデオを探せば、海外にいても「日本語を持ち歩いて」生活することができます。そうなると、以前ほどは外国語でコミュニケーションをする必要を感じなくなります。これは果たして良いことなのか、特に日本にいる人、日本語でしかコミュニケーションできない人には問題のように思えます。結果的には、どこにいっても、日本語だけの狭い世界に閉じこもってしまうことになるのではないかと懸念するからです。 

 私は英語でのコミュニケーションはあまり不自由を感じないので(といっても英語は母国語でもないし、私は帰国子女でもないので、書く場合などかかる時間はもちろんかなり違います)、日本語と英語の間はあまり壁があるという感じはしません。しかし、中国語などこれから地球の人口の多くが話す言葉は、漢字を見て意味がおぼろげにわかる程度で、コミュニケーション手段としては使うことができません。今までの所は、私が接触する人たちがほとんど英語(Broken Englishです)でコミュニケーションができるので、あまり必要性を感じないのです。実は、これが曲者で、上記したように意識していないので、実は狭い世界に閉じこもってしまっていることになり、今後大きな問題になる可能性は高いのです。

 海外で時間があって、ネットを見たりしていると、これで英語がわからなかったらどうしているのだろうと思うことがあります。ネットという驚異的な手段、ブロードバンドのアクセスがあっても、ほとんどが意味を持たないことになるのだろうか、とはたと考えてしまいます。これはかなり大きな問題だと最近特に痛感しているので、またどう思うか、続けます。